私の義理の弟は速水良男といった。良い男。名は体を表すというけれど彼もまさにそうで、勉強も運動もできて、それでいて気配りのできる誰にでも好かれるタイプの人間だった。もちろん女の子にもモテるし、かといって男子に嫌われることもなく、いつでも頼りにされていた。
 委員長だったり、生徒会長という目立つタイプではないけれど、保健委員の彼はひっそりと存在のある人間だった。
 何でもできる、弟。初め出会った時こそギクシャクしたものの良男はすぐに私に懐いてくれたし、私のほうも妬むことなく彼を自慢とした。


 ダメなところをあげればキリがない、と彼はいつも通り放課後の保健室で呟く。
 夕焼けの日差しは良男の髪を茶色く光らせて、その青白い頬をぼんやりと照らす。
 部屋には二人きりだからしんとしていて、良男が棚を整理するかたんことんという音だけが響く。ここに来るのは保健室の先生を除けば良男を目当てにくる女の子だけで、このご時世委員なんて面倒くさいものを真面目にやっているのは良男くらいだ。
「ダメなところなんて見当たらないけどな。あなたって優等生だもの」
 保健委員特権で良男が入れてくれたココアはゆるゆると熱そうな湯気を出している。猫舌な私はふうふうと息を吹きかけながら冷めるのを待つ。良男のこういう真面目なだけじゃないところも私は好きだ。
 良男はいつも通り優しく微笑んで私を見つめる。
「ねえさんには、わからないよ」
 良男の言葉は字面ほどには冷たくない。優しく、そうっと諭すように彼は言う。
「ねえさんなのに?」
 からかうように問うと良男の綺麗に整えられた眉がほんの少し顰められる。私はその綺麗な顔がほんの少し形を崩すのが好きで、よく良男をからかう。そのたびに彼はほんのり眉をひそめて私を喜ばせて、それでもやっぱりなんでもないように笑うのだ。
「ねえさんだからだよ」
 ぽとり、良男の頬にまつ毛の影が落ちる。
 外が急激に暗闇を増す。良男は慌てるように、「帰らなきゃ」と呟く。
 私は帰り支度を始める彼の背中をじいと眺める。

「わからせてはくれないのね」
 そんな当たり前のことを尋ねる。良男は驚いたように振り向いて、それで少し寂しそうな顔をした。何か迷ったように、何度か口を開きかけて、止めた。
 そうして言いたかったこととはたぶん違うことを言うために彼は口を開く。
「僕はねえさんのことが好きだよ」
「うん」
「それってとっても尊いことだと思うんだ」
「とうとい?」
 私を、好きなことが尊い。
 その言葉の意味が分からなくて、繰り返すと、まるで雛鳥でもみるみたいに良男はまた笑った。
「だから僕はそれ以上近づけなくなる」
 帰ろう、と良男が手を差し出す。
 せっかく冷めたココアに口をつけることなく、私はその手を取る。まるで今からどこかまったく知らないところに行ってしまうようなそんな雰囲気で、けれどここはただの放課後の保健室で、わたしたちが帰る場所もまた見慣れた小さな家なのだ。
 握った良男の手は生ぬるく、私を包む。外はもう暗く私たちをなんでもないようなものにする。

「僕は優等生だ」
「優等生はルールを守らなきゃちゃいけない」
「そうだろう、ねえさん」
 そう言った良男はあんまりにも必死な顔で私をみつめて、手を汗ばませるものだから私はただ、うんとしか頷けなくてただ彼から目をそらす。
 品行方正で優等生な彼は、私の弟だ。


 /群集心理企画提出
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